坂口安吾の「特攻隊に捧ぐ」を読んだ。
短いエッセイだが、彼の感性の鋭さが痛いほどよくわかる内容だった。
まず、このエッセイの主張を簡潔に述べている箇所があるので抜粋する。
“私は戦争を最も呪う。だが、特攻隊を永遠に讃美する。その人間の懊悩苦悶とかくて国のため人のためにささげられたいのちに対して。”
(抜粋:: 坂口安吾. “特攻隊に捧ぐ”。 iBooks. https://itun.es/jp/fa5hI.l)
彼は特攻隊を生み出した戦争というものこそ最も残虐で憎むべきものであり、もう二度と同じ過ちを犯してはならないと誓いながらも、その結果として現れた若者たちの「殉国の情熱」はとても美しく尊いものだと言っているのだ。自らの頭に思い浮かぶ家族や恋人を死と並べて格闘し、国のために命をささげたその苦悩と完結。その無償の行為こそが最も美しいのだと。
この特攻隊の姿に対するあまりの称賛を読んでいると、一見その美を生み出した戦争を讃美しているようにも取れてしまう。しかし、安吾にはその懸念がしっかりわかっていて、その上でこの主張をしているのだ。
“私は然しいささか美に惑溺しているのである。そして根柢的な過失を犯している。私はそれに気付いているのだ。戦争が奇蹟を行ったという表現は憎むべき偽懣の言葉で、奇蹟の正体は、国のためにいのちを捨てることを「強要した」というところにある。奇蹟でもなんでもない。無理強いに強要されたのだ。これは戦争の性格だ。その性格に自由はない。かりに作戦の許す最大限の自由を許したにしても、戦争に真実の自由はなく、所詮兵隊は人間ではなく人形なのだ。”
とある。しかし、このあとに文章はこう続く。
“けれども私は「強要せられた」ことを一応忘れる考え方も必要だと思っている。(中略)その次に始まったのは彼個人の凄絶な死との格闘、人間の苦悩で、強要によって起りはしたが、燃焼はそれ自体であり、強要と切り離して、それ自体として見ることも可能だという考えである。否、私はむしろ切り離して、それ自体として見ることが正当で、格闘のあげくの殉国の情熱を最大の讃美を以て敬愛したい”
この“切り離す”態度が僕には素晴らしく感じられるのだ。
戦争のことを考えるとき、我々はつい“善”か“悪”かにまとめて括ってしまいがちになる。しかし、安吾は戦争をきっぱり否定しながらも、そこから切り離して特攻隊の「殉国の情熱」を礼讃しているのだ。その「殉国の情熱」とはただ単純なことで、他を想い、そのために自分を捧げることに他ならない。それは戦争とは一切関係ないことだ。物事を分析するときに、その中から善悪をそれぞれ抽出し、切り離すことの大切さ、難しさ。しかし、それが大事なのではないか。その姿勢を、安吾自身はこう綴る。
“我々はこの戦争の中から積悪の泥沼をあばき天日にさらし干し乾して正体を見破り自省と又明日の建設の足場とすることが必要であるが、同時に、戦争の中から真実の花をさがして、ひそかに我が部屋をかざり、明日の日により美しい花をもとめ花咲かせる努力と希望を失ってはならないだろう。”
ただ、こういう反論があるかもしれない。安吾は特攻隊員たちを「強制される側」として見ているが、その特攻隊員たちによって殺された家族のあるアメリカ兵たちはどうなのか。彼らは特攻隊によって死を「強制された」人たちではないのか、と。この点に関しては、彼の感性はジャーナリストではなく、芸術家であったと言わせてもらう。彼は特攻隊から指令という強制を引き剥がしただけでなく、殺人という結果すらも剥がしてしまったのだ。あくまでも純粋に、その死との格闘というプロセスだけを抽出して。その抽出された美こそが、このエッセイ最大の魅力と言えよう。
短いエッセイだが、彼の感性の鋭さが痛いほどよくわかる内容だった。
まず、このエッセイの主張を簡潔に述べている箇所があるので抜粋する。
“私は戦争を最も呪う。だが、特攻隊を永遠に讃美する。その人間の懊悩苦悶とかくて国のため人のためにささげられたいのちに対して。”
(抜粋:: 坂口安吾. “特攻隊に捧ぐ”。 iBooks. https://itun.es/jp/fa5hI.l)
彼は特攻隊を生み出した戦争というものこそ最も残虐で憎むべきものであり、もう二度と同じ過ちを犯してはならないと誓いながらも、その結果として現れた若者たちの「殉国の情熱」はとても美しく尊いものだと言っているのだ。自らの頭に思い浮かぶ家族や恋人を死と並べて格闘し、国のために命をささげたその苦悩と完結。その無償の行為こそが最も美しいのだと。
この特攻隊の姿に対するあまりの称賛を読んでいると、一見その美を生み出した戦争を讃美しているようにも取れてしまう。しかし、安吾にはその懸念がしっかりわかっていて、その上でこの主張をしているのだ。
“私は然しいささか美に惑溺しているのである。そして根柢的な過失を犯している。私はそれに気付いているのだ。戦争が奇蹟を行ったという表現は憎むべき偽懣の言葉で、奇蹟の正体は、国のためにいのちを捨てることを「強要した」というところにある。奇蹟でもなんでもない。無理強いに強要されたのだ。これは戦争の性格だ。その性格に自由はない。かりに作戦の許す最大限の自由を許したにしても、戦争に真実の自由はなく、所詮兵隊は人間ではなく人形なのだ。”
とある。しかし、このあとに文章はこう続く。
“けれども私は「強要せられた」ことを一応忘れる考え方も必要だと思っている。(中略)その次に始まったのは彼個人の凄絶な死との格闘、人間の苦悩で、強要によって起りはしたが、燃焼はそれ自体であり、強要と切り離して、それ自体として見ることも可能だという考えである。否、私はむしろ切り離して、それ自体として見ることが正当で、格闘のあげくの殉国の情熱を最大の讃美を以て敬愛したい”
この“切り離す”態度が僕には素晴らしく感じられるのだ。
戦争のことを考えるとき、我々はつい“善”か“悪”かにまとめて括ってしまいがちになる。しかし、安吾は戦争をきっぱり否定しながらも、そこから切り離して特攻隊の「殉国の情熱」を礼讃しているのだ。その「殉国の情熱」とはただ単純なことで、他を想い、そのために自分を捧げることに他ならない。それは戦争とは一切関係ないことだ。物事を分析するときに、その中から善悪をそれぞれ抽出し、切り離すことの大切さ、難しさ。しかし、それが大事なのではないか。その姿勢を、安吾自身はこう綴る。
“我々はこの戦争の中から積悪の泥沼をあばき天日にさらし干し乾して正体を見破り自省と又明日の建設の足場とすることが必要であるが、同時に、戦争の中から真実の花をさがして、ひそかに我が部屋をかざり、明日の日により美しい花をもとめ花咲かせる努力と希望を失ってはならないだろう。”
ただ、こういう反論があるかもしれない。安吾は特攻隊員たちを「強制される側」として見ているが、その特攻隊員たちによって殺された家族のあるアメリカ兵たちはどうなのか。彼らは特攻隊によって死を「強制された」人たちではないのか、と。この点に関しては、彼の感性はジャーナリストではなく、芸術家であったと言わせてもらう。彼は特攻隊から指令という強制を引き剥がしただけでなく、殺人という結果すらも剥がしてしまったのだ。あくまでも純粋に、その死との格闘というプロセスだけを抽出して。その抽出された美こそが、このエッセイ最大の魅力と言えよう。
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